愛が欲しいのに、自分で自分に与えられない矛盾
なんとなく、寂しい。
なんだか満たされない。
私はよくそういう気持ちを抱えつつ
そんなことを思うのは甘ったれていると自分を叱ります。
でも、心のどこかにずっと寂しいという声が残っているのを感じています。
要は、「そのままの自分を愛して欲しい」という欲求が未だなくならないのだと思います。
いい年になってきたと分かっているので口にも出さないうちに、最近自覚することはなくなってきただけで。
二十代前半のころも友人とそんな話をしていたような気がします。「ありのままの自分を認めてくれる彼氏がほしいね。」と。
認めて欲しいと思っている。なのに、自分自身はありのままの自分を認めていない。
自分で自分のことを認められないからこそ、
無条件に愛情をくれる人を見つけて安心したいと思っているという心理がはたらいていたのだと思います。
この気持ち、大人になれば解消されると思っていたのだけれど
一向に改善されることはありませんでした。
では、この気持ちとどう向き合えば良いのか?
問題は、愛されたいと思っているくせに
自分は自分を愛していないこと。
そこにあるのだと思います。
だから今までの
誰かに依存したいという気持ちを抑圧する方法では
きっと幾つ年をとっても苦しいままであるような気がします。
解決策は自分にこうあるべき自分を押し付けることでない。
本当は何が欲しかったの?と自分に問いかけ、
愛情が欲しかったのだときちんと気付き
それを恥じることなく、抑圧することなく
それを自分に与えてあげることなのだと思います。
親も人間。時には自分のことで頭がいっぱいになり、
子供の期待する愛情を注げないこともある。
だから多かれ少なかれ、多くの人が親からの「完全な愛情」を注がれることなく大人になったのだと思いなったのだと思います。
よって、年をとっても寂しさはそれなりに残る。
しかし、大人になればその寂しさを癒す愛情を自分に与えることができる。
それなのに、私はそれがわからず
社会的地位を築いて人から賞賛されれば満たされるのか?
ならば努力して仕事しなければとか
結婚して愛してくれるひとができれば満たされるのか?
ならば綺麗でいなければとか
自分に何かを課し、それを達成することでしか満足は得られないと思い込んでいました。
頑張って目標を達成すると、心はさらに高い目標を課す。苦しい。
目標が達成できないと、自分には価値がないと感じられる。より苦しい。
心の中で寂しいと思っている自分は置き去りのまま
どんどん苦しいだけが蓄積されていく。
そのことに気づけたら、もう大丈夫。
これからは、頑張ることで成果のバリアをはるのではなく
ずっと欲しいと思っていた無償の愛情を自分に注ぐことから始めよう。
満たされたと感じるまで、ずっと注ぎ続けよう。
愛に飢えた自分の心の器が満たされた時、
その時になってはじめて、自分の器から溢れた愛を他人に与えることができるのだと思います。
いつか他人を心から思いやり、愛をあげられる人になりたい。
その時まで、まずは自分を無条件に愛してあげたいと思います。